(16)旧東海道(横砂東の切り通し)
旧東海道(横砂東の切り通し)
東海道は慶長6年(1601)正月、徳川家康の命を受けた、時の代官頭大久保長安等により江戸と京都を結ぶ最も重要な道として整備され、寛永15年(1638)各宿駅に100人100疋の常備人馬が設定された道である。
波多打川と庵原川には、江戸時代前期には橋を架けることは許されず、仮板橋が懸け置かれた徒行(かち)渡りであった。出水になり、仮板橋が流失するなどの節には隣村の助郷が川越(かわごし)人足として出役し、その川越賃銭も定められていた。波多打川は特に道が川口を渡渉していた為に、出水時に加えて高波の影響も大きく、寛政8年(1796)10月琉球人江戸参府の折に、波多打川に長さ22間(39.89m)幅9尺(2.7m)の長い仮橋が架けられた記録が興津町誌に見られ、伝馬・諸大名等の通行には困難を極めていたのである。その後1800年代になって、東海道分開廷絵図(1806)や、駿府加番山田真実が著した「清見時紀行」(1822)に見られるように、山を切り開き切り通しの道を造り、波多打川に土橋が架けられているのが描かれている。山を切り開き、川に土橋が架けられたことによって、東海道を行き来する旅人や伝馬・諸人名・朝鮮通信使・琉球人江戸参府等の通行に大いに役立ち困難が解消した道である。
