<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
   <title>清水ふるさと塾</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/" />
   <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://s-furusato.net/atom.xml" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1</id>
   <updated>2008-11-30T05:16:58Z</updated>
   
   <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 3.35</generator>

<entry>
   <title>一緒に「もちつき」やりましょう</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/11/post_20.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.193</id>
   
   <published>2008-11-30T01:05:09Z</published>
   <updated>2008-11-30T05:16:58Z</updated>
   
   <summary>12月14日(日)、港町商店街振興組合の主催で「第6回みなと夢市」が開かれます。...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="お知らせ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[12月14日(日)、港町商店街振興組合の主催で「第6回みなと夢市」が開かれます。会場は、エスパルス通りの歩道（港町商店街）で、各商店の名品や特産品、挽きたて珈琲の販売、ストリートパフォーマンス、タラバカニ、いくら、数の子など海産物が当たる抽選会など盛りだくさんの「夢市」です。

<img alt="みなと夢市" src="http://iso-ya.com/today/2007/0712yumeichi2.jpg" width="520" height="328" />

昨年に引き続き、「みなと夢市」で行われるもちつき大会を「清水ふるさと塾」が担当することになりました。

「もちつき大会」では、つき上がったもちを、あんころ餅、きな粉餅にして1皿100円で販売します。子どもさんにも参加してもらい、みんなで楽しくもちつきをしたいと思います。

そこで読者のみなさんに、お願いがあります。つき上がったもちを小さくまるめ、あんころ餅ときな粉餅にする作業と、その販売のお手伝いをお願いしたいのです。初心者大歓迎（というか、みんな素人）です。

<img alt="みなと夢市「もちつき大会」" src="http://iso-ya.com/today/2007/0712yumeichi4.jpg" width="520" height="390" /><blockquote><a href="http://iso-ya.com/today/2007/12/post_508.html">▲昨年のもちつき大会の様子は「きょうの清水」へ≫</a></blockquote>

つき手と、返し手は商店街のベテランをお願いしています。もちろん、もちつき体験も出来ます。子どもさんの参加も歓迎します。

もちつきは3回行う予定です。全部に参加できなくても構いません。事前にお手伝いの連絡を頂いた方には、お弁当を用意します。

年末の慌ただしい時ですが、昔ながらの「もちつき」を楽しみながら、ふるさと清水の話で盛り上がりたいと思います。当日の飛び込みでも構いませんので是非ともご参加下さい。

<img alt="みなと夢市" src="http://iso-ya.com/today/2007/minati-yume.gif" width="369" height="225" class="center"/><blockquote>もちつき大会の会場は、化粧品店とお茶屋さんの間にある駐車場です。なを、スタッフ用の駐車場は用意できませんので、周囲の駐車場をご利用下さい。当日は小雨決行で開催します。<br/><br/>●主催：港町商店街振興組合●共催：末廣商友会●協力：船宿末廣・清水ふるさと塾・まちあそび研究所<br/><br/>●お問い合わせはコメントまたは、info@s-furusato.net へお願いします。</a></blockquote>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>庵原軌道ウォーキングのGPS軌跡</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/11/gps.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.192</id>
   
   <published>2008-11-24T11:39:12Z</published>
   <updated>2008-11-24T12:06:11Z</updated>
   
   <summary>11月16日に実施しました「清水ふるさと塾第4回ウォーキング・庵原軌道を歩こう」...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="鉄道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[11月16日に実施しました「清水ふるさと塾第4回ウォーキング・庵原軌道を歩こう」に参加して頂いた、Rさんから、当日の歩いた軌跡データが届きましたので、紹介します。

<a href="http://s-furusato.net/download/GPS081116ihara.kml">●Download≫庵原軌道ウォーキングのGPS軌跡（Google Earth）</a>
<h3>▲右クリックでメニューを開き、保存してからダブルクリックで開くと軌跡が表示されます。Google Earthがインストールされていないとご覧になれません。</h3>

携帯したGPSロガーが、歩いた道筋をデータとして記録したものを、Google Earthで表示させたものが、下図です。

<img alt="庵原軌道ウォーキングのGPS軌跡" src="http://s-furusato.net/iharakidou-gps.jpg" width="390" height="580" class="center"/>

GPSログ解析によれば、「水平距離　8.87km、経過時間　1時間53分50秒、平均速度　4.7km/h」となっています。約8キロを2時間掛けて歩いたことになります。自分の歩いた道が、画面上の写真地図の上に描かれたのを見るのは初めてですが、いいものですね。歩いたことへの達成感といいますか、充実感があります。データを提供してくれたRさん、ありがとうございます。

]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>古老が語る庵原軌道</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/11/4.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.191</id>
   
   <published>2008-11-20T11:12:05Z</published>
   <updated>2008-11-22T02:08:25Z</updated>
   
   <summary>平成7から20年までに、西久保を知る会から4册の聞き書き記録集「古老のお話」が発...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="鉄道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[<img alt="古老が語る庵原軌道" src="http://s-furusato.net/081116i.jpg" width="390" height="470" class="center"/><blockquote>平成7から20年までに、西久保を知る会から4册の聞き書き記録集「古老のお話」が発行されている。</blockquote>

西久保在住の有志で作る「西久保を知る会」が、古老の聞き書きを平成7年から冊子として発行している。平成20年4月には第4集が発行された。どの冊子も、地元の人がふるさとの歴史を語り継ぐ貴重な資料である。

西久保を走っていた庵原軌道については、何人もの方が思い出を語っている。いくら小型とはいえ、蒸気機関車が村に登場した驚きが伝わってくる。

そのなかで、平成10年に発行された冊子の第2集「続・西久保の古老のお話」に庵原軌道について詳しく書いた一文がある。昭和58年に発行された「神明大学作文集」に収められていたものを、再収録したものである。

　筆者は明治から大正へ元号が変わった年に生まれた。庵原軌道が西久保を走った時代は、2歳から5歳の間になる。御本人も「人の背中に背負われて」と書かれているように、蒸気機関車が走っていた時代より、線路跡の記憶の方が鮮明だと思う。終点の庵原金谷にあった「太田製紙工場」についての分析は、地元ならではの貴重な視点である。

<h3><span class="memo">▼「続・西久保の古老のお話」（西久保を知る会編）より</span>

　私の幼年期（大正3年～4年）人の背中に負われて見た軽便鉄道（小型SL）の西久保鹿島前停留所は、私の家より60米から70米南の、今のユーアイストアの交差点北西の角に、大人のふた抱えもある大きな柳の下に、切符売り場と待合室が建っていた。その付近には給水施設や灰捨て場もあったように記憶する。

　軌道の幅員は、昔建設の使うトロッコをやや広くした位と思っている。当時の東海道線江尻駅前を起点として、辻町―矢倉神社―鹿島前―明神の越―松花―金谷を終点として全長6.4粁米を、時速10粁米前後で走ったものと思われる。料金は一丁場約2銭であった由。なぜ金谷を終点にしたかというと、ここに太田製紙工場があったので、原材料や製品の搬送に常時利用してもらう為であった。今考えてもユニークな交通機関を70年以上も前に、計画した企業精神には関心する。若しこの会社が存続していたら、小型SLの日本における数少ない鉄道として、子ども達の人気の的になっていたことだとうと思い、残念でなりません。

　しかし、会社は当初の目論み通りに行かず。多額の赤字を出して倒産した。これがもとで、発起人で会社の中心人物であった西ヶ谷可吉氏は、後に御不幸な最後を遂げられた。当地方の発展に尽くした卓越した政治家の人徳を偲び、真に痛惜の感に耐えない次第である。

　現代でも通常、私鉄の走っている所は、沿線に温泉があるか有数の鉱山、石炭山、或いは特産品の大産地があって、それに沿線大衆にかなりの購買力があることが私鉄の存立条件である筈。その点、不幸にして袖師、庵原地区はまだ、当時はお茶が少々と和紙が出る程度だった。蜜柑は、小生の妻の曾祖父鈴木泰助老が、明治30年紀州有田より温州蜜柑を移入し、栽培方法など自費出版して普及に努力し始めたばかりで、まだ大した特産品としての地位を確立していなかった。従って、農民大衆が、軽便鉄道を常時利用するまでの経済力を持って居なかったというのが実状であった。

　しかし、皮肉にも蜜柑栽培は急速なスピードで普及し、山林や竹藪は次々と開墾され蜜柑園に変貌して行くにつれ、山林としての雨水の貯水力は目立って減少して、庵原川は雨の一時水は出ても、かつての豊富な水量は涸れて、この水を製紙用水として利用し操業していた製紙会社は、遂に金谷での操業を断念し、清水市入江の巴川沿いに工場を移転せざるを得ないことになる。これが巴川製紙の前身である。

　この工場移転は、軽便鉄道の貨物輸送の最大手荷主を失うことになってしまうのである。かくして、軽便鉄道は益々赤字に追い込まれ、遂に廃業せざるを得なくなって行く。結果論だが、私鉄経営の基盤設定に過誤があったように思われる次第である。</h3>


庵原軌道を会社として興した西ヶ谷可吉という人物は、明治34年11月、江尻貯蓄銀行の初代専務を勤めながら静岡県第二区選出の衆議院議員に当選した。庵原郡柑橘組合長、静岡県柑橘同業組合連合会会長（静柑連）、静岡県農会長などの公職を歴任するなど、明治から大正にかけて庵原郡、清水市を代表する経済人であり政治家であった。

明治41年8月に、株式会社庵原軌道会社を創立し、その社長となった。柑橘組合の要職についていた立場からすれば、太田製紙所からの貨物利用に加えて、蜜柑の輸送も考えたかもしれない。茶葉の輸送のために、鷹匠町から清水波止場まで静岡鉄道が開通した時代である。旅客より貨物が輸送の主役だった。

明治39年、西ヶ谷可吉は静岡県農会長として静岡県内各地を巡回している。そして、化学肥料の普及が広がっていない現状を知る。良質の蜜柑栽培に欠かせない、化学肥料の普及が始まったばかりである。農家に化学肥料の優位性を教え、農業技術の改良を計るために。て辻に肥料部を設置した。使い方を啓蒙しながらの販売である。

大正元年10月、肥料部は静岡の財閥宮崎友太郎、尾崎角次郎、榛場彦太郎、中村円一郎、山梨紫朗諸氏の出資を得て「合資会社西ヶ谷商店」を発足させ、本格的な肥料販売を始めた。当時の化学肥料生産には、大豆カスが欠かせない。中国東北部（満州）からの輸入を始めるが、大正2年、南京米と満州大豆の輸入事業に失敗した。

新規の鉄道事業だった庵原軌道株式会社も数十万円の負債を残して破綻した。肥料の輸入販売が、どのような経緯で失敗したのかは判らないが、化学肥料が大量に消費される時代を先読みしていたことに、間違いはなかった。

しかし、庵原で温州蜜柑の栽培が急速に広がり、山々が開墾された。その結果、「山林しての雨水の貯水力は目立って減少」し、庵原川の豊富な水は涸れてしまった。そのために製紙工場は豊富な水を求めて巴川沿いに移転した。軽便鉄道が走る以前、大規模簿な蜜柑栽培が行われていなかった時代、庵原川は豊富な水量を誇っていたのだと思う。

第二東名の工事が始まった頃、庵原川の河口付近から神明川の合流地点にかけて川底を深くする工事が行われた。第二東名の建設で山が切り開かれ、大雨が降ると一時的に大量の水が河川に流れ込むための対策だと聞いた。山林の保水力が失われることで、下流の産業や生活にも大きな影響が出る。

軽便鉄道が走り抜けた、明治の終わりから大正にかけての時代、庵原川にとっても大きな変化に向かう出発点だった。

<img alt="秋葉山下の五叉路" src="http://s-furusato.net/nisikubo-gosaro.jpg" width="520" height="390" /><blockquote>秋葉山下の五叉路。写真左への道は大手町を経て、稚児橋へ続く。正面、焼き芋の軽トラックが進む方向は北街道。写真右には二方向に分かれる。道路標識の右折はバス路線となっている庵原へ続く道。五叉路から一方通行で入れない道をそのまま直進すると庵原川に続く。「<a href="http://iso-ya.com/today/2006/06/post_355.html">庵原川の仲裁</a>」では次郎長が、この道を通ったのかもしれない。</blockquote>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>第4回ふるさと塾ウォーキング報告(下)</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/11/post_19.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.190</id>
   
   <published>2008-11-18T11:10:02Z</published>
   <updated>2008-11-21T05:40:08Z</updated>
   
   <summary>江尻と庵原に小型の蒸気機関車を走らせた「庵原軌道」は大正2年12月に江尻―西久保...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="ウォーキング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="鉄道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[江尻と庵原に小型の蒸気機関車を走らせた「庵原軌道」は大正2年12月に江尻―西久保間が開通している。その後、西久保―庵原金谷間の二次工事が行われ、大正3年5月に江尻―庵原金谷の全線が開通した。

<img alt="s5map-nishikubo.jpg" src="http://s-furusato.net/s5map-nishikubo.jpg" width="520" height="692" /><blockquote>東海道線の開通は明治22年、江尻駅が現在の場所に移動したのは昭和元年である。昭和5年発行の地図では「江尻駅」は現在の清水駅と同じ場所に描かれている。明治から大正までの東海道線江尻駅は、現在の清水駅から南、線路がカーブしている所にあった。「漁師の踏切」を呼ばれる狭い踏切の付近になる。なぜ、この場所に最初の駅が作られたのは江尻波止場に一番近い場所だったからである。
</blockquote>

起点となる江尻駅は、東海道線江尻駅の西側50メートルほどの場所にあった。現在の割烹「大花」の辺りになる。駅の近くには、清水で最初の常設映画館「<a href="http://iso-ya.com/today/2006/05/4_2.html">敷島館</a>」があった。清水銀座の入口でもあり、江尻宿の時代から、飲食店が並ぶ賑やかな場所だった。

<img alt="081116f.jpg" src="http://s-furusato.net/081116f.jpg" width="390" height="520" class="center"/><blockquote>【地図C地点】乾医院から北を臨む</blockquote>

江尻から、現在のさつき通りを北に向かい、本郷を通り、辻町に向かう。辻交差点で左に大きく曲がり、矢倉通りを秋葉山方面に進む。

コンビニや眼鏡店がある辻町交差点から西への道は、12月の秋葉山大祭で両側に夜店が並ぶ参道である。だが、この道路は明治時代の地図には描かれていない。秋葉山への道は、この道路のひとつ南側、魚磯やトクナガコーヒーがある狭い道だった。

昭和5年の地図では秋葉山の入口は北街道側からとして描かれている。この入口は現在もあるが、参拝客は東側入口から入り、右に90度曲がって本殿に向かう。

秋葉山下の五叉路まで道路はほぼ直線である。矢倉神社を過ぎた5差路で、現在のバス路線と同じように庵原に向かう。路線バスが運行される道路だが、道はうねるようなカーブが続き、昔の街道の面影が残る。

<img alt="081116g.jpg" src="http://s-furusato.net/081116g.jpg" width="390" height="520" class="center"/><blockquote>【地図D地点】スーパーサカマルの西隣。ガード下に「三角公園」と呼ばれる小さな公園がある。</blockquote>

新幹線のガードの手前でバス路線は左に曲がり鹿島神社に向かう。庵原軌道は、ここを直進し袖師中学校へ向かう。この道路は、付近の道路とは異なり直線だ。昭和5年の地図で見ると、線路の周辺は水田と畑しかない。道路がない場所に最短距離で敷設したのだろう。

新幹線のガード東側（写真では右側）にスーパー（現在はサカマルだが、その前はユーアイストアー）がある。この付近に西久保停車場があった。待合室や石炭の燃えかすを捨てる場所もあったという。

<img alt="081116h.jpg" src="http://s-furusato.net/081116h.jpg" width="520" height="390" /><blockquote>【地図E地点】袖師中学校の北端道路。「神明前停車場」がこの付近にあった。西久保から進んできた蒸気機関車は、ここで左に曲がり庵原に向かう。</blockquote>

16日のウォーキングは、これから雨がひどくなる予報が出ていたこともあって、袖師と庵原の境目まで歩いたところで、予定を打ち切った。その代わり、予定にはなかった「神明古墳跡」を見学して、散会した。朝9時に波止場を出発してから約2時間半。途中、出会った地元の人に昔の様子を聞くこともでき、有意義で楽しいウォーキングとなった。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>第4回ふるさと塾ウォーキング報告(上)</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/11/41.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.189</id>
   
   <published>2008-11-16T07:54:27Z</published>
   <updated>2008-11-21T11:55:28Z</updated>
   
   <summary>11月16日、第4回清水ふるさと塾ウォーキングが行われ7名が参加しました。朝8時...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="ウォーキング" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="鉄道" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[<h4>11月16日、第4回清水ふるさと塾ウォーキングが行われ7名が参加しました。朝8時頃には雲の間に青空が見え、天気は回復に向かうかと思われたのですが、集合の9時には今にも降り出しそうな雲行きでした。初対面の方もいましたので、挨拶と自己紹介の後に、恒例となっている記念写真を撮影して主発です。今回のウォーキングは静鉄電車の清水波止場停車場から、江尻新道（現在の新清水）までの線路跡を歩く前半と、江尻から庵原をつないでいた軽便鉄道の庵原軌道の線路跡をあるく後半に分かれます。</h4>

<img alt="第4回ふるさと塾ウォーキング報告" src="http://s-furusato.net/081116e.jpg" width="390" height="520" class="center"/><blockquote>豊年製油（Jオイルミルズ）工場入口の交差点から、清水区役所を見る。この辺りに松原駅があった。</blockquote>明治41年（1908)、軽便鉄道の蒸気機関車が静岡鷹匠町（新静岡）から江尻新道（新清水）を経て、清水波止場間まで走った。明治39年（1906）に始まったアメリカへの茶葉輸出は年ごとに規模が拡大し、またたくまに輸出量は横浜、神戸を超えた。茶葉の取引が行われていた「お茶所」があった静岡市葵区安西から清水港まで茶葉を運ぶ輸送手段が必要になったからだ。その後、大正8年に、車両は電化され「電気鐵道」となった

清水波止場停車場は、昭和5年の地図では鈴与本社付近になる。（昭和14年に発行された「清水市之栞」では、波止場交差点、ユニクロの付近になっている。浪漫館前という説もある。時代によって停車場が移動したのかもしれない）

湾岸道路を区役所方面に向かって歩き始める。豊年（Jオイルミルズ）の工場入口の付近から道路が緩やかなカーブを描いて区役所に続いている。下の地図で丸く囲んだAの場所である。線路のカーブが、そのまま道路に残っている。

清水波止場から江尻新道（新清水）の間には、「松原」という停留所があった。松原町という町名が出来たのは昭和9年である。この辺りは元禄年間に防風林として植えられた松林があり、それが町名の由来になっている。

<img alt="昭和5年の参謀本部地図" src="http://s-furusato.net/s5map-hatoba-ejiri.jpg" width="520" height="485" /><blockquote>「静岡県駿河国清水市庵原郡安倍郡・明治二十二年測図大正五年第二回修正測図昭和五年鉄道補入」部分（個人蔵）</blockquote>
区役所を左に見ながら、島崎の西宮神社（おいべっさん）に向かって歩く。島崎の西宮神社は大正4年、豊年製油（当時は、鈴木商店製油部）の工場埋立の時に、鎮守のため本町（清水町魚座）の西宮神社を勧請したものだ。清水にある神社のなかで一番歴史の浅い神社かもしれない。

島崎の西宮神社のすぐ南、道路の反対側に湾曲した小路がある。上の地図で丸く囲んだBである。この小路に線路があった。

私は、小学校1年の夏休みまで島崎町に家があった。島崎町の学区は浜田で、この小路は浜田小学校への通学路だった。昭和30年代の前半、小路の入口に「ごきげん横丁」と書かれた提灯がアーチのように吊されていたのを覚えている。

<img alt="第4回ふるさと塾ウォーキング報告" src="http://s-furusato.net/081116c.jpg" width="390" height="520" class="center"/>　<blockquote>相生交番と島崎の西宮神社の中ほどに、この小路がある</blockquote>開通当初は762ミリ幅の軌道だったが、後に電化され、レール幅も1067ミリに広げられた。現在の「ごきげん横丁」には片側にしか店舗が並んでいない。電車が走っていたころは、この道幅の倍の広さがあったはずだ。

「横丁」を抜けると、その先に「新世界」が続く。現在は、小さな飲食店が軒を連ねている場所に、以前は静鉄の社宅があったという。

<img alt="第4回ふるさと塾ウォーキング報告" src="http://s-furusato.net/081116b.jpg" width="390" height="520" class="center"/><blockquote>「新世界」に電車が走っていたという話をすると、たいがいの人は驚く。</blockquote>「新世界」の小路を走っていた線路は昭和24年（1949）3月25日に廃止された。線路跡に飲食店が入り「新世界」となるのは昭和25年だという。

<img alt="第4回ふるさと塾ウォーキング報告" src="http://s-furusato.net/081116a.jpg" width="390" height="520" class="center"/><blockquote>新清水は、開業時には「江尻新道」という駅名だった。その後「相生町駅」となり、さらに「新清水」となった。</blockquote>新世界の西側入口から新清水駅が見える。静岡の鷹匠町駅を出発した電車や貨車が、ここを通り、島崎で右に大きく曲がり波止場へ向かっていた。60年ほど前に、そんな景色があった。昔と言えば昔だが、戦後の話である。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>地図に描かれた庵原軌道</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/11/post_18.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.188</id>
   
   <published>2008-11-14T14:32:50Z</published>
   <updated>2008-11-15T08:28:52Z</updated>
   
   <summary>昭和5年、参謀本部から発行された「静岡県駿河国清水市庵原郡安倍郡」には庵原軌道の...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="お知らせ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[<img alt="info.gif" src="http://s-furusato.net/img/logo/info.gif" width="210" height="210" class="left"/>昭和5年、参謀本部から発行された「静岡県駿河国清水市庵原郡安倍郡」には庵原軌道の線路が記されている。庵原軌道の路線が現在の道路ではどのようになっているのかは「庵原軌道倶楽部」のサイトに詳しく紹介されている。今回のウォーキングでは、「<a href="http://www4.tokai.or.jp/s.tetudourekisi/Ihara/Ihara0a.html">庵原軌道の線路跡</a>」を参考に、歩こうと思う。

庵原軌道の駅名について、<a href="http://s-furusato.net/sizusin-map.html" onclick="window.open('http://s-furusato.net/sizusin-map.html','popup','width=400,height=676,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">「今は昔　しずおか懐かし鉄道」</a>（静岡新聞社編）が解説している名称と、「庵原軌道倶楽部」が解説している名称では大きく異なっている。これについては、庵原軌道倶楽部の表記を使わせて頂いた。

<img alt="庵原軌道（嶺～金谷）" src="http://s-furusato.net/iharakidou-kanaya.jpg" width="520" height="759" />　<blockquote>「明神前」は、現在では嶺神明宮の前というより袖師中学校前になる。「庵原金谷」は静鉄バス（ジャストライン）「金谷」バス停付近になる。地図の赤い線は、所有者の方が書き入れたものである。</blockquote><img alt="庵原軌道（江尻～嶺）" src="http://s-furusato.net/iharakidou-mine.jpg" width="520" height="692" /><blockquote>当時の「辻小学校」は現在の元静柑連ビルの場所になる。「西久保」駅はスーパー・サカマル（元ユーアイストア）横の新幹線ガード付近になる。「江尻駅」の場所は現在の清水駅と同じである。昭和9年、名称が江尻駅から清水駅になった。東海道線が開通した明治22年から昭和元年まで江尻駅は、現在の駅より南側、波止場踏切（漁師の踏切）にあった。庵原軌道の江尻駅は、国鉄への乗り換えを考慮して作られていた。</blockquote>　
<img alt="s5-map01.jpg" src="http://s-furusato.net/s5-map01.jpg" width="390" height="340" /><blockquote>この地図を個人で所蔵されている方は、戦前から地図収集に熱心で、敗戦直後に地図を購入している。販売されているにも関わらず、使用目的などを詳しく聞かれたという。</blockquote>

庵原軌道は大正2年12月に江尻―西久保間が開通し、翌3年5月に江尻―庵原金谷の全線が開通している。その後、運営会社の経営難もあって大正5年7月に廃線となった。

この地図を発行したのが参謀本部であり、「明治二十二年測図大正五年第二回修正測図昭和五年鉄道補入」と記載されていることからも、線路跡が存在していたと思われる。

<strong>第4回清水ふるさと塾ウォーキングの案内</strong>

●日時　11月16日（日）　9:00～11:30
●集合　ドリプラ・ユニクロ横駐車場「あっ朝市」櫻珈琲・青テント前
●行程　ドリプラ～島崎～新清水～江尻～西久保～庵原（帰路はバス）

]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>11/16庵原軌道を歩こう</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/10/1116.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.187</id>
   
   <published>2008-10-31T02:07:42Z</published>
   <updated>2008-10-31T08:09:32Z</updated>
   
   <summary>第4回清水ふるさと塾ウォーキングの案内 ●日時　11月16日（日）　9:00～1...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="お知らせ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[<strong>第4回清水ふるさと塾ウォーキングの案内</strong>

●日時　11月16日（日）　9:00～11:30
●集合　ドリプラ・ユニクロ横駐車場「あっ朝市」櫻珈琲・青テント前
●行程　ドリプラ～島崎～新清水～江尻～西久保～庵原（帰路はバス）

<img alt="info.gif" src="http://s-furusato.net/img/logo/info.gif" width="210" height="210" class="left"/>「庵原軌道」は明治から大正にかけて、6年間だけ運行された軽便鉄道である。6年間のなかで全線開通していたのは、わずか2年という短命の鉄道だった。始発は江尻（現在の大花付近）、終点は庵原川沿いの金谷で、路線距離は5.5kmだった。

ウォーキングは朝9時、ドリプラのユニクロ横駐車場で開かれている「あっ朝市」から出発し、新清水に向かう。区役所裏手になる島崎町の道路を進み、島崎のおいべっさん南にある湾曲した小路「「ごきげん横丁」から、「新世界」を抜ける。これらの小路は、単線の客車と貨車が走っていた線路跡である。

<h4>明治41年（1908)、軽便鉄道の蒸気機関車が静岡鷹匠町（新静岡）から江尻新道（新清水）を経て、清水波止場間まで走った。明治39年（1906）アメリカへの茶葉輸出が始まり、輸出量は横浜、神戸を超えた。お茶所があった静岡の安西から清水波止場まで茶葉を運ぶ輸送手段が必要になったのだ。大正8年には、車両は電化され「電気鐵道」となった。</h4>

「江尻新道」（現新清水）から、庵原軌道の始発駅があった「江尻」に向かい、あとは昭和5年に発行された地図を頼りに、本郷、西久保、庵原へ進み、終点の金谷まで歩く。庵原からはバスで戻る予定にしている。

<img alt="昭和5年の参謀本部地図" src="http://s-furusato.net/s14/s14-3-4.jpg" width="520" height="705" /><blockquote>「静岡県駿河国清水市庵原郡安倍郡」（明治二十二年測図大正五年第二回修正測図昭和五年鉄道補入）この地図の発行元は参謀本部であり、戦前は一般では入手できないものだった。明治22年の測量を、大正5年に修正し、昭和5年に鉄道路線を追加して発行された参謀本部の地図である。江尻駅（現清水駅）の西側に庵原軌道が書かれている。（個人蔵）</blockquote>

<img alt="写真集・清水いまむかし" src="http://s-furusato.net/s14/s14-3-5.jpg" width="520" height="302" /><blockquote>「写真集・清水いまむかし」（郷土出版社　昭和62年刊）に掲載された、昭和6年頃の清水波止場停留所。貨物と客車が写っている。鈴与本社の南側と説明されているので、現在のユニクロ前の道路になると思われる。</blockquote>







]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>「袋城」研究発表会を開きました</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/10/post_17.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.184</id>
   
   <published>2008-10-26T12:42:17Z</published>
   <updated>2008-10-26T22:49:23Z</updated>
   
   <summary>研究発表会の講師は清水地区研究班が担当しました。 10月25日、清水ふるさと塾は...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="袋城" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[<img alt="「袋城」研究発表会" src="http://s-furusato.net/081025a.jpg" width="520" height="390" /><blockquote>研究発表会の講師は清水地区研究班が担当しました。</blockquote>

10月25日、清水ふるさと塾は「袋城」研究発表会を開き、塾生や友人など15名が参加しました。

発表会では清水地区研究班のメンバーが講師を担当し、ホームページに掲載した画像に加え、江戸時代から明治にかけての清水を描いた地図画像が9枚紹介されました。

会場からは、関船の係留方法や、水軍の攻撃法について専門的な発言もあり、謎の多い「袋城」の実像に迫る研究にとって、大きな成果がありました。

また、10月19日の「袋城ウォーキング」に参加したメンバーにとっては、現場での体験を再認識することになり、理解が深まったと思います。

清水ふるさと塾では、これからも現地調査と研究発表を通じて、塾生の親睦と研究の進化を目指したいと思います。レポートをまとめた清水地区研究班のみなさんご苦労様でした。また、参加された塾生のみなさん、お疲れ様でした。

<img alt="081025c.jpg" src="http://s-furusato.net/081025c.jpg" width="520" height="358" /><blockquote>研究発表会で資料として紹介された1620年の清水を描いた図版。地形が現代と大きく違っている様子が判る。</blockquote>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>速報●400年前の清水を歩く</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/10/400.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.183</id>
   
   <published>2008-10-19T12:14:04Z</published>
   <updated>2008-10-19T12:34:09Z</updated>
   
   <summary>武田水軍の関船は、長さ25mあったと言われています。その長さが、実際にどのくらい...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="袋城" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[<img alt="新魚町から袋町で巻尺を使って計測" src="http://s-furusato.net/1019-001.jpg" width="520" height="390" /><blockquote>武田水軍の関船は、長さ25mあったと言われています。その長さが、実際にどのくらいのものなのか、袋城の湾曲した堀があったと推測される新魚町から袋町で巻尺を使って計測を行いました。</blockquote>

10月19日、清水ふるさと塾では「400年前の清水を歩こう」というタイトルで、袋城の規模と戦略をイメージするために、浜清水浜堤を周回するウォーキングを実施しました。

9月に公開した「袋城」レポートが解説している場所を、実際に歩き、文字や写真のイメージを現地で体感するのがウォーキングの目的でした。現地調査では、新しい「発見」もありました。

ウォーキングの詳細については後日、報告します。

<img alt="富士見橋で巴川の川幅を測定" src="http://s-furusato.net/1019-003.jpg" width="520" height="390" /><blockquote>富士見橋で巴川の川幅を測定しました。富士見橋の長さは約60m。400年前の江川の川幅が40mと推定されています。現在の巴川の下流部分の2/3の川幅を持っていたことがイメージできます。</blockquote>

<img alt="1019-002.jpg" src="http://s-furusato.net/1019-002.jpg" width="520" height="390" /><blockquote>現在は暗渠となっている江川が、巴川に流れ込む場所にある八雲神社では、地元の方から敗戦直後から昭和30年代にかけての江川や巴川沿いにあった製材工場の貯木場について教えて頂きました。</blockquote>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>10月19日袋城ウォーキングを行います</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/10/1019.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.177</id>
   
   <published>2008-10-16T05:57:14Z</published>
   <updated>2008-10-17T13:28:41Z</updated>
   
   <summary>　　400年前の清水を歩こう（袋城ウォーキング） 　　10月19日（日）9:00...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="お知らせ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="袋城" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[　　<strong>400年前の清水を歩こう（袋城ウォーキング）</strong>
　　10月19日（日）9:00集合　9:15出発　11:30解散
　　集合場所：ドリプラ・ユニクロ横駐車場「あっ朝市」<a href="http://blog.goo.ne.jp/sakuracaffee/">櫻珈琲</a>・青テント
　　参加費：無料
　　主催：清水ふるさと塾
　　連絡先：　info（アットマーク）s-furusato.net

清水ふるさと塾では、清水地区研究班の<a href="http://s-furusato.net/fukurojyo/">「袋城」レポート</a>完成を記念して、その昔、袋城があった「浜清水浜堤」を一周するウォーキング「400年前の清水を歩こう」を10月19日に実施します。

<img alt="袋城ウォーキング・コース" src="http://s-furusato.net/fukuro-walking-map.jpg" width="520" height="530"/ ><blockquote>▲袋城ウォーキングの予定コース。400年前の「浜清水浜堤」を周回します。</blockquote><img alt="袋城の時代の江川の想像図" src="http://s-furusato.net/fukurojyo/fukuro-saigen14.jpg" width="390" height="510" class="center"/ ><blockquote>▲袋城の時代の想像図と現代の地図を重ねています</blockquote>


集合は、朝9時、集合場所はドリプラ・ユニクロ横の駐車場で開かれている「あっ朝市」の櫻珈琲青テントです。終了予定は11時頃で、集合地点に戻って解散となります。

コースは港橋から、袋城の石が残されている上総神社に向かい、「浜清水浜堤」を一周する形で復元地図をガイドに歩きます。

袋城があった旧地名の袋町では、武田水軍の関船が停泊していたイメージを再現するため、船長25mの長さを実体験します。

上一丁目の八雲神社では、現在は暗渠となっている江川の流れをたどり、川幅40mがどの位の距離になるのかをイメージするため、江川を挟んでいた専念寺と対岸の禅叢寺の距離を測量し、川幅を体感します。

さらに、妙生寺、実相寺、美濃輪稲荷から浄念川を越え、「浜清水浜堤」の南端まで歩きます。最後は、巴川沿いに港橋まで歩き、出発地点に戻って解散となります。


どなたでも参加できます。集合場所で「清水ふるさと塾」の腕章をした係員が受付を行いますので、お声を掛けて下さい。

「雨天結構」で小雨でも実施しますが、天候による中止の場合は前日夜に、このページを更新しますので、ご覧になって下さい。

<blockquote>19日の「あっ朝市」では「秋の福引会」が行われていますので、集合時間より早めにお越し頂ければ、幸運をつかむことができるかと思います。車でお越しの方は、朝市専用の駐車場ではなく、近隣の一般駐車場をご利用下さい。</blockquote>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>昭和14年の清水（その３）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/10/14_3.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.182</id>
   
   <published>2008-10-10T11:33:58Z</published>
   <updated>2008-10-12T10:29:59Z</updated>
   
   <summary>「清水市之栞」は、工場や別荘の誘致のための宣伝が目的なので、市街地が斜線で塗られ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="昭和14年の清水" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[<img alt="清水市之栞" src="http://s-furusato.net/s14/s14-1-1map.jpg" width="520" height="908" /><blockquote>「清水市之栞」は、工場や別荘の誘致のための宣伝が目的なので、市街地が斜線で塗られている。現在は、商店や宅地が密集しているが、昭和14年当時、密集していたのは、表通りに面した部分だけで、少し裏に入ると空地や畑が広がっていたようだ。</blockquote>

<strong>●波止場停留所</strong>

「清水市之栞」の描かれた市街地は斜線と赤の色分けで見づらいが、国鉄臨港線の他に、電車の線路が二本記されている。横砂から港橋までの線路と、新清水から島崎を通り、現在の鈴与本社とドリプラの間から波止場までの線路である。

<img alt="写真集・清水いまむかし" src="http://s-furusato.net/s14/s14-3-5.jpg" width="520" height="302" /><blockquote>「写真集・清水いまむかし」（郷土出版社　昭和62年刊）に掲載された、昭和6年頃の清水波止場停留所。貨物と客車が写っている。鈴与本社の南側と説明されているので、現在のユニクロ前の道路になると思われる。</blockquote>

明治41年（1908)、軽便鉄道の蒸気機関車が静岡鷹匠町（新静岡）から江尻新道（新清水）を経て、清水波止場間まで走った。明治39年（1906）アメリカへの茶葉輸出が始まり、輸出量は横浜、神戸を超えた。お茶所があった静岡の安西から清水波止場まで茶葉を運ぶ輸送手段が必要になったのだ。大正8年には、車両は電化され「電気鐵道」となった。

現在の新清水の改札を出た正面に「新世界」と名付けられた狭い小路がある。両側に酒場が連なるこの通りに単線の客車と貨車が走っていた。「新世界」を抜けると、少し曲がった小路「ごきげん横丁」がある。そして、島崎町の西宮神社（おいべっさん）の前から波止場まで線路が続いていた。。

<h4>下図は明治22年の測量を、大正5年に修正し、昭和5年に鉄道路線を追加して発行された参謀本部の地図である。この地図には、新静岡から波止場までの「電気鐵道」路線がはっきり記されている。</h4>

<img alt="昭和5年の参謀本部地図" src="http://s-furusato.net/s14/s14-3-4.jpg" width="520" height="705" /><blockquote>「静岡県駿河国清水市庵原郡安倍郡」（明治二十二年測図大正五年第二回修正測図昭和五年鉄道補入）この地図の発行元は参謀本部であり、戦前は一般では入手できないものだった。江尻駅（現清水駅）の西側に庵原軌道が書かれている。二重丸で記された市役所は旭町ではなく本町にあり、郵便局は本町と江尻の二ヶ所にあった。（個人蔵）</blockquote>

<img alt="0805unno-kozaburo2.jpg" src="http://s-furusato.net/s14/0805unno-kozaburo2.jpg" width="390" height="520" class="center"/><blockquote>マリンパークにある茶葉輸出を記念する石碑。目立たない場所にあるため、知らない人が多いかもしれない。<br/><a href="http://s-furusato.net/s14/0805unno-kozaburo3.html" onclick="window.open('http://s-furusato.net/s14/0805unno-kozaburo3.html','popup','width=520,height=471,scrollbars=yes,resizable=yes,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false">●記念碑の説明≫（別ウィンドウで開きます）</a></blockquote>

明治39年（1906）に始まった茶葉のアメリカ輸出は年々増大し、大正6年（1917）には茶葉は清水港の総輸出額の98％、全国の茶葉輸出の80％を占めるまでに至った。清水港の改修工事により大型船が入港できるようになったことに加えて、静岡のお茶所（茶市場）から清水波止場まで茶葉を運んだ軽便鉄道が大きな役割を果たしていた。

貿易は港だけで完結するものではない。港に荷を集め船に積む、船から降ろされた荷を必要な場所に運ぶ。それらが効率よく処理されるところに大きな富が生まれる。清水港の歴史は、鉄道や電車の歴史でもある。

<h4>鉄道の開業年度などは、2008年3月にフェルケール博物館で開かれた企画展「清水港の鉄道と荷役」で配布された年表を参考にさせて頂いている。</h4>

つづく]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>昭和14年の清水（その２）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/10/14_2.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.178</id>
   
   <published>2008-10-07T07:35:26Z</published>
   <updated>2008-10-08T02:08:30Z</updated>
   
   <summary>日軽金社史は、その後に発行された「五十年史」もあるが、古いことを調べるためなので...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="昭和14年の清水" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[<img alt="日本軽金属三十年史" src="http://s-furusato.net/s14/s14-2-2.jpg" width="390" height="322" class="center"/><blockquote>日軽金社史は、その後に発行された「五十年史」もあるが、古いことを調べるためなので、昭和45年（1970）に発行された「三十年史」を選んだ。</blockquote>

<strong>●日軽金初代社長小林一三</strong>

三保貝島の埋立地に作られた日本軽金属清水工場の操業開始から三年遅れで清水港線が開通した理由を調べるため、図書館から「日本軽金属三十年史」を借りた。

会社の創立の経緯が解りやすく書かれている。日本にアルミ地金が輸入されたのは、明治27年（1894）で、「飯ごう、火薬入れ容器、食器などの軍用品をはじめ、なべ、弁当箱などの家庭用品が次々に生産されていった」

国内でのアルミ製錬が始まるのは、昭和9年（1934）である。「中国大陸における日中間の戦局の拡大を背景に、需要はいっそう増大し」「商工省をはじめ、陸海軍関係官庁は、昭和12年、アルミニウム製錬会社に対し、大増産を要請した」（三十年史）

そして、古河電気工業から「小規模企業の乱立を排し、一国一企業方式、官民協力の集中経営による大量生産工場の建設」を求める意見書が国に出され、政府は「生産力拡充5ヶ年計画」を策定した。（三十年史）

大量生産工場の立地条件として、原料のボーキサイトの輸入、そして石炭などの入手が容易なこと。大量の電力と工業用水が必要だった。候補地として、徳山（山口）、四日市（三重）、黒崎（福岡）、清水（静岡）、四ヶ所の名前が上がった。

「東電の電力開発にともなう大工業地帯の建設について、小林社長は富士川沿いの蒲原の地に設立する構想を、早くからもっていたといわれる。富士川電力は建設工事ならびに土地買収の資金に充当するため、十二年十一月と十三年九月の二回にわたって未払株の徴集を行ない、蒲原工場敷地の土地買収に着手した」（蒲原町史）

宝塚少女歌劇や阪急グループの創設で有名な小林一三は、日軽金の初代社長となるが、国のアルミ増産決定を受け、すぐ蒲原工場建設に向け土用地買収を始めている。最適地の調査が、その前に済んでいた証拠だ。

日軽金の社史にも、小林一三は電力を供給するため富士川と蒲原工場内に水力発電所を作る構想を持っていたと書かれている。大量生産工場の候補地四ヶ所の名前が上がる前から蒲原と一体化した清水が最有力候補だったといえそうだ。彼の経営者としての優れた感覚から、時代の先が読めたのかもしれない。

蒲原の電解工場は、昭和14年（1939）5月に工事が始まり、突貫工事で翌年の昭和15年（1940）10月に生産が始まった。前例のない大規模生産で、工場はトラブルが続出し「苦闘の時期」を経験したが、技術者の奮闘により工場の全設備が完成した昭和18年（1943）9月には、「製造技術も向上し、生産はとみに上昇した」と社史に書かれている。

清水臨港線が三保まで延長されたのは昭和19年（1944）7月1日である。アルミ生産がフル操業になった1943年の時点でも、線路は開通していなかった。このことについて社史では触れていない。蒲原町史も同じだった。

図書館の資料をあたってゆくなかで、多喜義郎氏の「しみずの昔」のなかに、鉄道建設の経緯が書かれていること見つけた。これは多喜義郎氏が朝日ファミリーに連載していたものをまとめた本で、昭和63年に執筆された「三保線」に鉄道建設の経緯が書かれていた。

多喜義郎氏は、こう説明している。

「日本軽金属清水工場に南洋ビンタン島のボーキサイトをアルミナに精製し、これを蒲原工場に船で運ぶ計画で蒲原工場の発電排水口に岸壁を作った処が、この岸壁は打ちよせる波で浅くなるばかりか、接岸が困難である事がわかり、間も無く鉄道輸送に切り換えざるを得ない結果となった。」

<img alt="日本軽金属三十年史" src="http://s-furusato.net/s14/s14-2-1.jpg" width="390" height="413" class="center"/><blockquote>昭和45年（1970）に発行された社史の蒲原工場には1号線バイパスが写っていない。工場が稼働した当初は発電排水路に岸壁が作られ、清水港からアルミナを積んだ船が接岸していた。</blockquote>

蒲原工場では発電排水路に岸壁を作って船を接岸させ、清水からアルミナを運んだ。蒲原工場が建設される以前、その土地は農地だった。砂浜は駿河湾に面し、風が吹けば大型船の接岸が困難なことは素人にも解る。

清水と土肥を結ぶ駿河湾フェリーが欠航する理由は、土肥の接岸場所が湾内ではなく駿河湾に面した場所にあり、風や波が強いと接岸できなくなるからだ。

だから、天候に左右されず荷役を確実に行える鉄道輸送が必要になった。アルミ製造は企業の問題ではなく、戦争遂行のための必需品だ。そして、巴川に可動橋が架けられ清水臨港線が三保まで延長されることになった。戦争末期で物資が極端に欠乏しているなかでの緊急工事だ。いろいろな部材に粗悪品が使われたのは当然だろう。

小林一三は当時の日本を代表する実業家として、新しい企業の姿を作り出していた。天候に影響されない鉄道輸送の利点と、蒲原海岸の難点について知らなかったとは思えない。

「当時国鉄はローカル線とはいえ国会の承認無しでは敷設出来ず、止むなく国策会社の工場構内線の型式でこの路線を巴川口より軽金属の構内に引き込んだという戦時下特別措置によったのではないかと思われる」（むかしの清水）と多喜義郎氏は当時の事情を説明している。

小林一三は昭和15年（1940）1月～翌年4月まで第2次近衛内閣の商工大臣を勤めている。彼の力をもってしても鉄道省を動かすのは困難だったのかもしれない。戦局が拡大し、次第に悪化するなかで敷設工事が始められる状況ではなかったと思う。商工大臣という立場から、戦局に関する最高機密を知っていたはずだ。

鉄道輸送の必要性を知りつつ、その建設には簡単に手が出せなかった。だから清水と蒲原を船で輸送する方法で生産を開始し、輸送が困難になった段階になって国を動かしたのではなかろうか。「3年遅れの開通」を小林一三は最初から折込み済みだった。そんな気がしてならない。

<img alt="清水市之栞" src="http://s-furusato.net/s14/s14-2-4map.jpg"  width="520" height="512" /><blockquote>「清水市之栞」（個人蔵）日本軽金属の工場用地は予定地となっている。三保街道の西側に、道路に沿って水色の線が引かれ、日軽金の工場のなかへ続いている。後に作られる鉄道引込線と似た軌跡だが、ここで描かれているのは安倍川で取水された静清工業用水である。</blockquote>

<img alt="s14-1-0map.jpg" src="http://s-furusato.net/s14/s14-1-0map.jpg" width="280" height="269" class="center"/><blockquote>「清水市之栞」は通常と地図と異なり色づけがされている。<br/>凡例の一部を紹介する。</blockquote>
つづく]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>「袋城」に地図を追加しました</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/10/post_16.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.176</id>
   
   <published>2008-10-03T04:55:46Z</published>
   <updated>2008-10-08T01:15:37Z</updated>
   
   <summary>9月15日に公開した、清水ふるさと塾・清水地区研究班によるレポート「袋城（ふくろ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="袋城" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[9月15日に公開した、清水ふるさと塾・清水地区研究班によるレポート「袋城（ふくろじょう）武田氏が築いた水軍基地／清水湊の発祥」に、袋城の規模や、水軍基地としての戦略を説明する想像図を加えました。

<a href="http://s-furusato.net/fukurojyo/">●「袋城（ふくろじょう）武田氏が築いた水軍基地／清水湊の発祥」≫</a>

<a href="http://s-furusato.net/fukurojyo/2008/09/post_3.html">▼「3.袋城の規模」≫</a>
<img alt="現在の地図に「清水袋城要図」と関船を当てはめてみた" src="http://s-furusato.net/fukurojyo/fukuro-saigen05.jpg" width="360" height="372" class="center"/><blockquote>「清水袋城要図」に描かれた袋城を現代の地図に重ねている。袋城の縮尺は、フェルケール博物館に展示してある武田水軍関船の復元模型から想定される船長を25mとして勘案し、袋城の広さは、旧町名「袋町」の範囲を基にした。</blockquote>

<a href="http://s-furusato.net/fukurojyo/2008/09/post_4.html">▼「4.袋城の戦略」≫</a>
<img alt="武田水軍と北条水軍の海戦想像図" src="http://s-furusato.net/fukurojyo/fukuro-saigen15.jpg" width="390" height="540" class="center"/><blockquote>北条水軍の攻撃を迎え撃つ武田水軍の海戦想像図</blockquote>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>昭和14年の清水（その１）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/09/14_1.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.175</id>
   
   <published>2008-09-23T03:11:43Z</published>
   <updated>2008-10-08T02:18:20Z</updated>
   
   <summary>昭和59年（1984）発行された清水港線の廃線記念切符 ●歩くことで見えてくるも...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="昭和14年の清水" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[<img alt="1984年（昭和59）発行された清水港線の廃線記念切符" src="http://s-furusato.net/080806simizukosen6a.jpg" width="520" height="210" /><blockquote>昭和59年（1984）発行された清水港線の廃線記念切符</blockquote>

<strong>●歩くことで見えてくるもの</strong>

8月16日、清水南高郷土研究部と清水鉄道遺産保存会が主催した「清水港線ガイドウォーク」に、清水ふるさと塾のメンバーが参加した。

集合は朝8時30分、清水駅東口である。この日も朝から猛烈な暑さだ。主催者から資料が配られ、昭和59年（1984）に廃止された清水港線の線路跡に沿って歩き始める。日の出埠頭、冨士見埠頭、鉄道岸壁に残る引込線の痕跡を丹念に見ながら三保駅跡まで歩いた。

若者たちの説明を聞きながらの探索は、暑さも、そして長時間のウォークキングであることも忘れさせてくれた。聞けば、事前の下見ウォークなど入念な準備が行われていたという。楽しさを支える若者たちの熱意が嬉しい。

「清水港線ガイドウォーク」では線路跡を歩きながら、「ここを列車が走っていたのだ」ということを何度も意識した。そう思わせる痕跡がたくさん残っている。歴史の現場に立ったと言えば大袈裟になるが、自分が歩いた清水港線の歴史を、掘り下げてみたくなってきた。現場を歩くことで見えてくるものがあることを実感した。

<blockquote>●「きょうの清水」<a href="http://iso-ya.com/today/2008/08/post_584.html">清水港線ガイドウォーク≫</a></blockquote>

<img alt="「清水市之栞」都市計画図を含む清水市全図と裏面に観光ガイドのような解説が印刷されている、観光マップのような作りになっている" src="http://s-furusato.net/siori-01.jpg" width="260" height="348" class="right" />話はひと月前に戻る。7月20日、清水ふるさと塾の仲間たちと袋城の時代を訪ねるウォーキングを行った。メンバー有志が「袋城」のレポートをまとめている時でもあり、それに触発され、本町から江尻、入江を歩いた。

このウォーキングは、ドリプラ駐車場で開催されている「あっ朝市」を集合場所にしていた。出発前の懇談で、メンバーのひとりが静岡県立図書館で閲覧し、コピーを取ってきてくれた「清水市之栞」を披露した。カラー印刷された昭和14年の地図には、港湾の埋立地の上に分譲地の広告のように赤字で「○万坪」と記されている。

これまで何冊かの郷土史の書籍や冊子を読んでいたが、「清水市之栞」は知らなかった。初めて見る栞の色刷り地図に驚いた。ただ、その時は珍しい物を見たという驚きだった。

8月16日の夜、清水港線の痕跡を思い出しながら、ひと月前に出会った「清水市之栞」を見直してみた。昭和14年の地図で清水港線がどのように記されているのか気になったからだ。

<img alt="清水港線の成り立ち" src="http://s-furusato.net/s14-1-1map.jpg" width="520" height="698" /><blockquote>昭和14年、清水商工会議所が発行した「清水市之栞」（個人蔵）</blockquote>

<strong>●3年遅れた開通</strong>

昭和14年（1939）年発行の「清水市之栞」には日の出埠頭までの線路が記されている。まだ巴川の可動橋はない。ここに描かれている日軽金清水工場は、まだ予定地だが、栞が発行された昭和14年7月に地鎮祭が行われ、2年後の昭和16年9月に操業が始まっている。

東海道線の開通は明治22年（1889）である。8年後の明治30年（1897）に複線化され、輸送力が強化される。清水港は、明治32年（1899）に開港場に指定されたが、輸出入の扱い扱い量はまだ大きくない。貿易が本格化するのは明治39年（1906）にアメリカへの製茶輸出が始まってからだ。これに合わせて、清水港の改修工事が始まる。

明治41年（1908）から始まった第1期改修工事で、清水船溜、江尻船溜、巴川河口が整備された。島崎海岸が埋め立てられ広大な工場敷地が出現し、豊年製油（当時は鈴木商店製油部）が誘致された。いくつかの候補地から清水が選ばれている。巨大な貨物船が横付けできる立地条件の良さが決め手だった。

豊年製油の工場が操業を始めたのが大正5年（1916）、臨港鉄道は工場の操業に合わせて江尻駅から延長され、臨港鉄道清水港駅が作られた。清水港駅はドリプラ前にあるテルファーの場所にあった。テルファーが完成したのは昭和2年（1927）で、まだ先の話だ。この時代、輸出の大半はお茶で、輸入の大半は大豆だった。

豊年製油（現Ｊ-オイルミルズ）の工場内に作られた引き込み線では、中国大陸から輸入された大豆が運ばれ、製品となった大豆油が全国へ出荷された。大豆油のシェアが8～9割にもなった時期がある。

清水港第2期改修工事は1921年（大正10）から始められ昭和13年（1938）に完了した。この工事で貝島の埋立と、日の出埠頭、富士見埠頭が建設された。現在に至る清水港の姿は、この頃にほぼ完成している。

昭和14年（1939）、アルミ生産のため日本軽金属が創立された。古河電工、三井鉱山、三菱鉱業、住友電線などの財閥が参加した国策企業である。アルミは戦争遂行のため欠かせない金属として注目されていたからだ。

工場を蒲原と貝島の埋立地に誘致する努力が行われた。その結果、蒲原に電気精錬工場が、三保貝島には原料のボーキサイトからアルミナを作り出す工場が造られた。工場には大型船が横付され、ボーキサイトが運び込まれた。豊年製油の工場と同じように、日軽金も誘致によって清水で操業を始めた大工場だった。

昭和16年に貝島で日軽金が操業を開始してから、3年後の昭和19年7月1日に清水港線（清水臨港線）が三保まで延長され、引込線が日軽金の工場に入った。原料や製品の運搬に必要な鉄道が、豊年製油では操業に合わせて用意されたが、日軽金では用意されていなかった。

<img alt="可動橋の滑車" src="http://s-furusato.net/080816railwalk7.jpg" width="520" height="390" /><blockquote>村松にある市内電車と清水港線の車両の屋外電車展示場の隅に無造作に置かれた鉄製の滑車。「これ何か判りますか？」と若者たちから聞かれて、すぐには判らなかったが「四個あるんです」とヒントをもらって可動橋の最上部でワイヤーを支えた滑車だということに気づいた。</blockquote>

清水港線の開通が日軽金の操業開始から3年も遅れていることを「清水港線ガイドウォーク」の時に、主催者の若者に聞いてみた。彼らにも遅れた理由は判らなかったが、清水港線で使われた鉄材が粗悪品だったことを教えてくれた。工業生産に必要な資材があらゆる分野で不足し、民間から鍋釜を徴収している時代だ。この時期に敷設された鉄道の材料が粗悪品だったのは当然のことだろう。

清水港線が三保駅まで延長され、三保駅から日軽金の工場内へ引き込み線が完成したのは昭和19年7月である。同じ頃、サイパン島が陥落し、10月には神風特攻隊の自爆攻撃が始まっている。三保までの線路の延長は、敗戦に向かって大きく進んでいる頃に工事が行われた。それは単に利便性を高めるというようなものではなく、非常事態のなかで一刻も早く完成させなければならない切羽詰まった理由があったはずだ。

<img alt="清水港線三保駅跡の公園に置かれているディーゼル気動車とアルミナ専用のタンク車両" src="http://s-furusato.net/080816railwalk9.jpg" width="520" height="390" /><blockquote>清水港線三保駅跡の公園に置かれているディーゼル気動車とアルミナ専用のタンク車両。アルミナ粉末を蒲原の電解工場に運んだ。</blockquote>

つづく]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>「袋城」レポートを公開しました</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://s-furusato.net/archive/2008/09/post_15.html" />
   <id>tag:s-furusato.net,2008://1.174</id>
   
   <published>2008-09-15T14:17:06Z</published>
   <updated>2008-10-08T01:15:55Z</updated>
   
   <summary>清水ふるさと塾・清水地区研究班によるレポート「袋城（ふくろじょう）武田氏が築いた...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="お知らせ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="袋城" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://s-furusato.net/">
      <![CDATA[清水ふるさと塾・清水地区研究班によるレポート「袋城（ふくろじょう）武田氏が築いた水軍基地／清水湊の発祥」を公開しました。

<a href="http://s-furusato.net/fukurojyo/">●「袋城（ふくろじょう）武田氏が築いた水軍基地／清水湊の発祥」≫</a>

<img src="http://s-furusato.net/img/logo/fukurojyo-top01.jpg" alt="袋城トップページ" class="left" />「袋城レポート」は、清水湊の発祥となった武田氏による袋城の成立を中心に、当時の姿を現在の地形のなかから再現しようというものです。

レポートでは、古文書や郷土資料に記された地形の変化を説明するとともに、今は、暗渠となり住宅地の地下を流れる溝川の現地調査に基づく考察を加えています。

清水の歴史を語るなかで、地形の変化は重要な要素といえます。巴川の流れ、河口の位置などは中世から近代にかけて大きく変化しています。なかでも、清水が交易の拠点として発展した戦国時代から江戸時代にかけては、人工的な河川改修や地震による海岸の隆起など、全国的にもまれな変化が起こっています。

<img alt="fukuro-map6.jpg" src="http://s-furusato.net/fukurojyo/fukuro-map6.jpg" width="390" height="679" class="center"/><blockquote>レポートが推測した袋城の時代の地図。袋城は駿河湾に面し、背後には大型の軍船が入る川があった。</blockquote>

コンクリートで囲われた小さな流れが、400年前には幅数十メートルの川幅だったことを想像すると、見慣れた町の景色が一変します。書物で調べるだけでなく、現場を歩き、現場の見ることの大切さを感じます。

市井の研究者故に稚拙な部分も多々あると思いますが、このレポートをきっかけに、郷土の歴史への関心が少しでも高まることを祈っております。

<img alt="袋城の石" src="http://s-furusato.net/fukurojyo/fukurojyo05.jpg" width="520" height="390" />]]>
      
   </content>
</entry>

</feed>
