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第8回ふるさと塾ガイドウォーク案内(3)

第8回ふるさと塾ガイドウォーク案内伊能忠敬

伊能忠敬が徳川幕府の命を受け正確な地図を作成するための測量を始めたのは、寛政12年(1800)だった。それ以降、文化13年(1816)まで10次に渡る全国測量を行った。第1次測量で奥州街道から蝦夷(北海道)太平洋岸まで半年に及ぶ旅に出たのは、伊能が56歳の時だった。そして、最後の旅となった第10次測量は72歳。その2年後に没し、伊能図と呼ばれる「大日本沿海輿地全図」が完成したのは、没後3年の文政4年(1821)だった。

伊能忠敬は16年間に渡る全国各地での測量で、克明な日誌を残している。千葉県佐原市にある伊能忠敬記念館所蔵の日誌から、現代文に直したものが「伊能忠敬日誌」(元伊能忠敬記念館館長佐久間達夫監修)として発行されている。

日誌の記録から、伊能忠敬は江尻宿に享和3年(1803)の第4次測量、文化2年(1805)の第5次測量、文化5年(1808)の第6次測量の3回訪れていることが判る。

江尻宿脇本陣があった場所

清水銀座のある説明看板では脇本陣府中屋は柳橋に向かう交差点の角付近と記されているが、伊能忠敬の「下図」のポイントを現在の地図に重なると四葉文具店付近になる。
江尻宿の説明看板

文化2年(1805)、第5次測量の日誌から一部を紹介する。

3月6日の朝、吉原宿から出発した一行は、二手に分かれる。一組は吉原から蒲原までを調べ、もう一組は蒲原から由比までを調べ、由比宿で合流する。

3月7日、由比から興津に向かう。ここでも二手に分かれ測量をしながら西へ進んだ。先に出た一組は興津の水口屋で昼食を取り、もう一組は西倉沢の川嶋善兵衛で昼食を取り、江尻宿の府中屋茂兵衛に泊まる。3月8日について、興味深い記述がある。

「同八日 朝白雲。「紀州御通行に付逗留。坂部、平山、門谷、小坂等、清水湊迄測る。」と記している。

伊能忠敬日誌

伊能忠敬は測量に際して克明な日誌を残している。日誌を現代文に直したものが「伊能忠敬日誌」(元伊能忠敬記念館館長佐久間達夫監修)として発行されている。「伊能忠敬日誌」17ページに第5次測量で参勤交代の一行が通過するため東海道から分かれ清水湊を測量したことが記されている。

この第5次測量では、東海道から紀伊半島、瀬戸内海沿岸から下関、山陰沿岸を測量している。江尻宿の脇本陣府中屋に泊まり、東海道を西へ進む予定が、参勤交代の一行が通るため「足止め」となり、予定を変更し、部下達が清水湊までの測量を行っている。

「下図」と完成した「伊能図」を並べてみると、測量記録を基に線で結んだ骨組みのような原図から地図を描いていったことがよく判る。(つづく)

下図と完成図の比較

完成図の街道は赤線で描かれている。これが下図で描かれた測量ポイントを結ぶ線である。地図をよく見ると、街道や海岸線は正確に測量しているが、巴川については調査対象外だったようだ。

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