清水の映画史(1)

新聞の切り抜きやパンフレットなどは分類保管すると決めているのだが、悲しいかな未分類未整理の資料を放り込んだ箱ばかり増えている。無造作に積み上げられた箱のひとつを開けてみたら、「風土」と題された冊子が出てきた。
清水東高郷土研究部が1985年に発行した会報である。どこで入手したのか覚えていないが、もしかしたら、その頃、東高の文化祭に出かけたのかもしれない。
「清水の映画 -映画史の試み-」と題された研究レポートは、大正から始まる清水の映画館の歴史を調査している。

昭和21年に完成した栄寿座。写真の手前に見える市内電車の線路が路面に埋設されていないのが判る。現在は、ここに進学予備校の大きなビルがある。
そのなかに、昭和30年から40年の映画館の地図があった。この地図には描かれていないが、邦画二番館の「三保劇場」と、常設館ではなかった興津の「開情館」が文面で紹介されている。
昭和30年代、清水には12の映画館があったことになる。
清水駅前のダイヤモンド劇場、江尻の名画座、清水橋の栄寿座、新清水の三軒並んだセントラル、東宝、サクラ、万世町のオリオン座と松竹、港橋の羽衣劇場とみなと劇場、三保の三保劇場、興津の開情館。(三保劇場と開情館は常設館ではなかったようだ)
郷土研究会のレポートに、昭和30年の大晦日にサクラ劇場で初めて試みたオールナイトの顛末が紹介されている。
入場券を求める人が4、5列に並び市役所のあたりまで続いたというから驚きだ。通常の入口だけでは入りきれず、非常口や事務所入口も開放して客を入れた。料金は100円。100円札があった時代だ。
客席は424だったのに、1800枚の入場券を販売したため、廊下まで人が溢れ、手を挙げたらそのまま下ろせない状態だった。そんな超満員で夜の10時から朝の5時半まで5本の映画が上映された。まさに、娯楽の王様、日本映画の黄金時代である。
郷土研のレポートは、テレビの登場による映画の衰退は直線的ではなかったことを説明する。
東京オリンピック以降の衰退のなかで、テレビに対抗して作られた高倉健、鶴田浩二のシリーズ物は固定客を生み出し、満席になることもあった。しかし、ボーリングブームが起こり、清水では見られなかったが、全国的には映画館からボーリング場への転身が多発した。客離れと映画館そのものの減少で日本映画の没落が決定的になったという。
東高郷土研究部が2000年に発表した「失われたリゾート 清水袖師海水浴場」は力作だ。この他に「巴川」「清水次郎長」などのレポートも発表されているという。しかし、数年前から活動が停止しているという。
部外者の一方的な思い入れで申し訳ないが、研究レポートの発表が続けられることを願わずにはいられない。

「みなと劇場」の場所は次郎長通り入口から西に80mほど行った現「池元」にあった。「羽衣劇場」は清水銀行本店の南にあるガソリンスタンドの隣になる。

オペラ館は、万世橋の袂にあった。敷島館はアイスの高田の裏のようだ。電車の線路がさつき通りを抜けて、新世界まで伸びている。当時は波止場まで線路があった。

栄寿座の写真と映画館の地図は「風土第17号」(1985年6月・清水東高校郷土研究部発行)に掲載されたものを紹介させて頂いた。顧問の肥田正巳先生はじめ、郷土研究部の皆さんの努力に拍手を。
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コメント
google地図で見ますと清水区村松310番地あたりです。「海長寺」というお寺の近くです。土地の古老(?),いやいや65歳以上の青年に聞けば覚えていると思います。人の一生は経験・体験の積み重ねを絶えず振り返るものとするならば,小屋の寿命はわずかな期間ではありましたが,身近なところで「映画館」があったということは実にうれしい人生の一シーンであります。翻ってあのような辺地で「映画館」を開いた館主である故・大石長次郎氏に敬意を表します。
mogera | 2009年12月31日
「曙劇場」は知りませんでした
どの辺りにあったのか教えて頂ければ幸いです。
磯 | 2009年12月28日
漏らさず記録に留めるとすればご参考までに。
昭和30年代に村松地区に「曙劇場」という小屋がありました。
場所としてはサッカー全日本元代表の服部選手の実家近くです。
「明治天皇と日露大戦争」「鞍馬天狗」「赤いカンナの花咲けば」などが記憶にあります(上映されたものをすべて見たわけではありませんが看板の記憶だけは鮮明に残っております)。のちに「曙劇場」は旅回りの役者の小屋へと変わり,映画の衰退よりも早くに姿を消しました。
mogera | 2009年12月28日