第7回清水ふるさと塾ウォーキング報告(2)
6月7日に行われた第7回清水ふるさと塾ウォーキング「明治26年の次郎長葬列と同じ道を歩く」では参加者に道順を記した葉書版のガイドマップとA4両面印刷した解説を配布しました。それらの資料にガイドスタッフの解説を加筆したものを掲載します。
●ウォーキングのガイドマップ ≫

6月7日のウォーキングコース。番号は解説ポイント。(1)次郎長堤(2)船宿末廣跡(3)復元された末廣
(1)次郎長堤
中世以来、巴川河畔にあった「清水湊」を、大型汽船に対応できる外港として、今の波止場の位置に明治8年(1875)頃から築造を始め明治12年(1879)に完成。次郎長の尽力を伝える石組の一部が現在も残っている。
(2)「船宿末廣」跡
明治19年(1886)、晩年の次郎長が開業した船宿「末廣」があった場所。明治26年(1893)6月12日、次郎長が74歳の生涯終焉の地。広瀬武雄、小笠原長生をはじめとする海軍軍人が訪れ、海軍の定宿として繁盛したという。小笠原の著書『大豪次郎長』には若い時の武勇談を熱っぽく語る次郎長が活写されている。
(3)港橋
清水町と波止場との運送の便宜を図ることを目的に、明治12年(1879)、波止場の完成と同年架橋。
●船宿末廣
明治19年、波止場に開業した次郎長の船宿を平成13年に復元。建材の一部には明治の船宿時代の物が使われている。主に明治以降の次郎長の功績を伝える資料館となっている。


6月7日のウォーキングコース。番号は解説ポイント。(4)(5)廻船問屋が軒を連ねた本町
(4)本町の廻船問屋跡
「清水湊」の時代、巴川西岸は廻船問屋の荷揚げ場と倉庫が建ち並び、上方と江戸の中継点して、米、塩、酒類を主力に栄えた。特に徳川家康から与えられた「42戸の問屋特権制度」は強力な独占権を持ち、幕府の庇護を受けながら長期にわたり清水の経済を維持して来た。
しかし、倒幕が転期となり明治8年(1875)にその制度が廃止となると、ほとんどの廻船問屋が廃業においこまれた。この未曾有のピンチの中、旧幕臣達などから知遇を得ていた次郎長は、お茶の輸出を中心とした大型汽船の時代の到来と外港の整備を、廻船問屋の経営者に説いて回ったという。天野屋九右衛門(天野回漕店)や播間屋与平(鈴与)らはそのベンチャ-に賭けた若き経営者であり、次郎長は生涯彼らの良き相談相手として共に清水港の発展に尽力した。
●成就院
士族新井幹が私学明徳館(清水小学校の前身)を寺内においた。次郎長は「これからの若いもんは、英語を知らなきゃあだめだ」と明徳館の一室に英語塾を開いた。これが日本で最初の英語塾である。
横浜との定期航路が実現すると次郎長は、静岡の茶商、清水の廻船問屋と横浜の商人を結びつけようと、しばしば汽船に乗って横浜へ出向いた。横浜で貿易する商人達のやり取りを目にしていた次郎長は、今後の港の発展には英語学習が必ず役立つと実感していたにちがいない。
(5)本町の廻船問屋松本屋跡
明治2年(1869)12月、廻船問屋松本屋平右衛門宅で次郎長は新門辰五郎と会見し、徳川慶喜の護衛役を引き継ぐ。平右衛門は新進気鋭の豪商で次郎長のパトロンだった。二人は清国への渡航を計画していたが、果たすことなく明治4年41歳で没した。

6月7日のウォーキングコース。番号は解説ポイント。(6)牛道(7)梅蔭禅寺
(6)牛道・金比羅神社跡
波止場の構築や横浜港への定期航路は、静岡のお茶を海外(北米)に輸出するためだった。「牛道」は静岡安西(茶町)から茶葉を運ぶ荷車が通ったことから付けられた。
●金刀比羅神社跡
浪曲の石松金刀比羅代参でもおなじみの金刀比羅さんだが、この岡清水の金刀比羅宮も、船頭だった実父「雲見ずの三右衛門」の影響等で何らかの関係があったと思われる。
(7)牛道から久能街道を通って梅蔭寺
明治26年(1983)の次郎長の葬列は「志みず道」「牛道」「久能街道」を通って梅蔭寺へ向った。葬列には数千人が参加したという。現代なら遠回りとなるが、当時はこのルートしか道がなかった。

6月7日のウォーキングコース。番号は解説ポイント。(8)美濃輪稲荷神社(9)次郎長生家
(8)美濃輪稲荷神社
社を囲う石柵に「山本長五郎」(次郎長の本名)と、ゆかりの人物の名が刻されている。石柵は風化が進み判読不明な名前がある。榎本武揚豪額の徳霊験碑もある。
本殿と石柵は、明治13年に美濃輪町が正式に美濃輪稲荷神社の氏子となった時に造営された。それまで美濃輪町は下清水八幡宮の氏子だった。発起心願人は、次郎長が少年期の養子先だった米屋「甲田屋」の代々当主を名のる「山本治郎右衛門」と確認できる。そして、そのすぐ傍らには横浜との定期航路の中心的人物「天野九右衛門」や活躍した大型汽船の名、つづいて静岡の茶商、清水の廻船問屋、横浜の商人の名が刻されている。
これらは清水港が、米や塩中心の河口港からお茶中心の外海港へと移り変わる激動の時代を象徴しているかのようである。こうした関系者たちの間を取り持った「山本長五郎」の名は意外にも、出口の柱の一番最後に何の肩書きも無くひっそりと彫られてる。決して歴史の表舞台には出てこないが、陰ながら清水港の未来と発展を見つめ尽力した証であり、次郎長の真骨頂を見る思いである。

(9)次郎長ゆかりの地
●次郎長生家
次郎長が生まれた家。実父の「雲見ずの三右衛門」こと高木三右衛門宅。高木家は代々、船持ち船頭を家業としていた。
●甲田屋跡
次郎長の叔父(実母の弟)、山本次郎八の経営する米商甲田屋の跡地。幼少の頃、養子となり「次郎八のところ(せがれ)の長五郎」が次郎長という呼び名になったのは有名な話。
●妙慶寺
嘉永2~4年、次郎長30歳の頃、江尻の大熊の妹(初代お蝶)をめとり、妙慶寺の門前に一家を構える。次郎長杉の伝説もある。

●壮士の墓
明治元年(1868)9月18日、官軍は清水湾で幕府軍艦「咸臨丸」を襲撃し、幕軍兵の犠牲者を海に投棄した。これを「咸臨丸事件」という。湾内に浮遊する幕軍兵の屍を「死ねば皆ほとけ」と次郎長が手厚く葬った。墓碑の「壮士墓」は山岡鉄舟が揮毫した。
「咸臨丸事件」の当時、次郎長は駿府町差配役の伏谷如水の命を受け清水湊の警固役(警察的役割)をしていた。地元の平和を維持する立場にいたことも、軍兵の屍を葬るという義侠的行動へと作用したと云われている。この行動こそが次郎長その後の人生を大きく変えた。
次郎長は、新政府樹立で江戸から追われ静岡へと移住してきた旧幕臣達から絶大な信頼をもって交友関系を築き、彼らから知遇と協力を得た。「咸臨丸事件」の2年前、慶応2年(1866)には荒神山(三重県)で縄張り争いをしていた次郎長が侠客から地元の社会事業家へと、人生の賽の目が大きく転がっていったのである。

