≪ 第4回ふるさと塾ウォーキング報告(下) | 清水ふるさと塾 | 庵原軌道ウォーキングのGPS軌跡 ≫


古老が語る庵原軌道

古老が語る庵原軌道

平成7から20年までに、西久保を知る会から4册の聞き書き記録集「古老のお話」が発行されている。

西久保在住の有志で作る「西久保を知る会」が、古老の聞き書きを平成7年から冊子として発行している。平成20年4月には第4集が発行された。どの冊子も、地元の人がふるさとの歴史を語り継ぐ貴重な資料である。

西久保を走っていた庵原軌道については、何人もの方が思い出を語っている。いくら小型とはいえ、蒸気機関車が村に登場した驚きが伝わってくる。

そのなかで、平成10年に発行された冊子の第2集「続・西久保の古老のお話」に庵原軌道について詳しく書いた一文がある。昭和58年に発行された「神明大学作文集」に収められていたものを、再収録したものである。

 筆者は明治から大正へ元号が変わった年に生まれた。庵原軌道が西久保を走った時代は、2歳から5歳の間になる。御本人も「人の背中に背負われて」と書かれているように、蒸気機関車が走っていた時代より、線路跡の記憶の方が鮮明だと思う。終点の庵原金谷にあった「太田製紙工場」についての分析は、地元ならではの貴重な視点である。

▼「続・西久保の古老のお話」(西久保を知る会編)より

 私の幼年期(大正3年~4年)人の背中に負われて見た軽便鉄道(小型SL)の西久保鹿島前停留所は、私の家より60米から70米南の、今のユーアイストアの交差点北西の角に、大人のふた抱えもある大きな柳の下に、切符売り場と待合室が建っていた。その付近には給水施設や灰捨て場もあったように記憶する。

 軌道の幅員は、昔建設の使うトロッコをやや広くした位と思っている。当時の東海道線江尻駅前を起点として、辻町―矢倉神社―鹿島前―明神の越―松花―金谷を終点として全長6.4粁米を、時速10粁米前後で走ったものと思われる。料金は一丁場約2銭であった由。なぜ金谷を終点にしたかというと、ここに太田製紙工場があったので、原材料や製品の搬送に常時利用してもらう為であった。今考えてもユニークな交通機関を70年以上も前に、計画した企業精神には関心する。若しこの会社が存続していたら、小型SLの日本における数少ない鉄道として、子ども達の人気の的になっていたことだとうと思い、残念でなりません。

 しかし、会社は当初の目論み通りに行かず。多額の赤字を出して倒産した。これがもとで、発起人で会社の中心人物であった西ヶ谷可吉氏は、後に御不幸な最後を遂げられた。当地方の発展に尽くした卓越した政治家の人徳を偲び、真に痛惜の感に耐えない次第である。

 現代でも通常、私鉄の走っている所は、沿線に温泉があるか有数の鉱山、石炭山、或いは特産品の大産地があって、それに沿線大衆にかなりの購買力があることが私鉄の存立条件である筈。その点、不幸にして袖師、庵原地区はまだ、当時はお茶が少々と和紙が出る程度だった。蜜柑は、小生の妻の曾祖父鈴木泰助老が、明治30年紀州有田より温州蜜柑を移入し、栽培方法など自費出版して普及に努力し始めたばかりで、まだ大した特産品としての地位を確立していなかった。従って、農民大衆が、軽便鉄道を常時利用するまでの経済力を持って居なかったというのが実状であった。

 しかし、皮肉にも蜜柑栽培は急速なスピードで普及し、山林や竹藪は次々と開墾され蜜柑園に変貌して行くにつれ、山林としての雨水の貯水力は目立って減少して、庵原川は雨の一時水は出ても、かつての豊富な水量は涸れて、この水を製紙用水として利用し操業していた製紙会社は、遂に金谷での操業を断念し、清水市入江の巴川沿いに工場を移転せざるを得ないことになる。これが巴川製紙の前身である。

 この工場移転は、軽便鉄道の貨物輸送の最大手荷主を失うことになってしまうのである。かくして、軽便鉄道は益々赤字に追い込まれ、遂に廃業せざるを得なくなって行く。結果論だが、私鉄経営の基盤設定に過誤があったように思われる次第である。


庵原軌道を会社として興した西ヶ谷可吉という人物は、明治34年11月、江尻貯蓄銀行の初代専務を勤めながら静岡県第二区選出の衆議院議員に当選した。庵原郡柑橘組合長、静岡県柑橘同業組合連合会会長(静柑連)、静岡県農会長などの公職を歴任するなど、明治から大正にかけて庵原郡、清水市を代表する経済人であり政治家であった。

明治41年8月に、株式会社庵原軌道会社を創立し、その社長となった。柑橘組合の要職についていた立場からすれば、太田製紙所からの貨物利用に加えて、蜜柑の輸送も考えたかもしれない。茶葉の輸送のために、鷹匠町から清水波止場まで静岡鉄道が開通した時代である。旅客より貨物が輸送の主役だった。

明治39年、西ヶ谷可吉は静岡県農会長として静岡県内各地を巡回している。そして、化学肥料の普及が広がっていない現状を知る。良質の蜜柑栽培に欠かせない、化学肥料の普及が始まったばかりである。農家に化学肥料の優位性を教え、農業技術の改良を計るために。て辻に肥料部を設置した。使い方を啓蒙しながらの販売である。

大正元年10月、肥料部は静岡の財閥宮崎友太郎、尾崎角次郎、榛場彦太郎、中村円一郎、山梨紫朗諸氏の出資を得て「合資会社西ヶ谷商店」を発足させ、本格的な肥料販売を始めた。当時の化学肥料生産には、大豆カスが欠かせない。中国東北部(満州)からの輸入を始めるが、大正2年、南京米と満州大豆の輸入事業に失敗した。

新規の鉄道事業だった庵原軌道株式会社も数十万円の負債を残して破綻した。肥料の輸入販売が、どのような経緯で失敗したのかは判らないが、化学肥料が大量に消費される時代を先読みしていたことに、間違いはなかった。

しかし、庵原で温州蜜柑の栽培が急速に広がり、山々が開墾された。その結果、「山林しての雨水の貯水力は目立って減少」し、庵原川の豊富な水は涸れてしまった。そのために製紙工場は豊富な水を求めて巴川沿いに移転した。軽便鉄道が走る以前、大規模簿な蜜柑栽培が行われていなかった時代、庵原川は豊富な水量を誇っていたのだと思う。

第二東名の工事が始まった頃、庵原川の河口付近から神明川の合流地点にかけて川底を深くする工事が行われた。第二東名の建設で山が切り開かれ、大雨が降ると一時的に大量の水が河川に流れ込むための対策だと聞いた。山林の保水力が失われることで、下流の産業や生活にも大きな影響が出る。

軽便鉄道が走り抜けた、明治の終わりから大正にかけての時代、庵原川にとっても大きな変化に向かう出発点だった。

秋葉山下の五叉路

秋葉山下の五叉路。写真左への道は大手町を経て、稚児橋へ続く。正面、焼き芋の軽トラックが進む方向は北街道。写真右には二方向に分かれる。道路標識の右折はバス路線となっている庵原へ続く道。五叉路から一方通行で入れない道をそのまま直進すると庵原川に続く。「庵原川の仲裁」では次郎長が、この道を通ったのかもしれない。

≪ 第4回ふるさと塾ウォーキング報告(下) | 清水ふるさと塾 | 庵原軌道ウォーキングのGPS軌跡 ≫

コメントを投稿

Copyright Shimizu Furusato Jyuku All rights reserved.  RSS2.0