昭和14年の清水(その2)

日軽金社史は、その後に発行された「五十年史」もあるが、古いことを調べるためなので、1970年(昭和45)に発行された「三十年史」を選んだ。
●日軽金初代社長小林一三
三保貝島の埋立地に作られた日本軽金属清水工場の操業開始から三年遅れで清水港線が開通した理由を調べるため、図書館から「日本軽金属三十年史」を借りた。
会社の創立の経緯が解りやすく書かれている。日本にアルミ地金が輸入されたのは、1894年(明治27)で、「飯ごう、火薬入れ容器、食器などの軍用品をはじめ、なべ、弁当箱などの家庭用品が次々に生産されていった」
国内でのアルミ製錬が始まるのは、1934年(昭和9)である。「中国大陸における日中間の戦局の拡大を背景に、需要はいっそう増大し」「商工省をはじめ、陸海軍関係官庁は、昭和12年、アルミニウム製錬会社に対し、大増産を要請した」
そして、古河電気工業から「小規模企業の乱立を排し、一国一企業方式、官民協力の集中経営による大量生産工場の建設」を求める意見書が国に出され、政府は「生産力拡充5ヶ年計画」を策定した。
大量生産工場の立地条件として、原料のボーキサイトの輸入、そして石炭などの入手が容易なこと。大量の電力と工業用水が必要だった。候補地として、徳山(山口)、四日市(三重)、黒崎(福岡)、清水(静岡)、四ヶ所の名前が上がった。
「東電の電力開発にともなう大工業地帯の建設について、小林社長は富士川沿いの蒲原の地に設立する構想を、早くからもっていたといわれる。富士川電力は建設工事ならびに土地買収の資金に充当するため、十二年十一月と十三年九月の二回にわたって未払株の徴集を行ない、蒲原工場敷地の土地買収に着手した」(蒲原町史)
宝塚少女歌劇や阪急グループの創設で有名な小林一三は、日軽金の初代社長となるが、国のアルミ増産決定を受け、すぐ蒲原工場建設に向け土用地買収を始めている。最適地の調査が、その前に済んでいた証拠だ。
日軽金の社史にも、小林一三は電力を供給するため富士川と蒲原工場内に水力発電所を作る構想を持っていたと書かれている。大量生産工場の候補地四ヶ所の名前が上がる前から蒲原と一体化した清水が最有力候補だったといえそうだ。彼の経営者としての優れた感覚から、時代の先が読めたのかもしれない。
蒲原の電解工場は、1914年(昭和14)5月に工事が始まり、突貫工事で翌年の1915年(昭和15)10月に生産が始まった。前例のない大規模生産で、工場はトラブルが続出し「苦闘の時期」を経験したが、技術者の奮闘により工場の全設備が完成した1943年(昭和18)9月には、「製造技術も向上し、生産はとみに上昇した」と社史に書かれている。
清水臨港線が三保まで延長されたのは1944年(昭和19)7月1日である。アルミ生産がフル操業になった1943年の時点でも、線路は開通していなかった。このことについて社史では触れていない。蒲原町史も同じだった。
図書館の資料をあたってゆくなかで、多喜義郎氏の「しみずの昔」のなかに、鉄道建設の経緯が書かれていること見つけた。これは多喜義郎氏が朝日ファミリーに連載していたものをまとめた本で、昭和63年に執筆された「三保線」に鉄道建設の経緯が書かれていた。
多喜義郎氏は、こう説明している。
「日本軽金属清水工場に南洋ビンタン島のボーキサイトをアルミナに精製し、これを蒲原工場に船で運ぶ計画で蒲原工場の発電排水口に岸壁を作った処が、この岸壁は打ちよせる波で浅くなるばかりか、接岸が困難である事がわかり、間も無く鉄道輸送に切り換えざるを得ない結果となった。」

1970年(昭和45)に発行された社史の蒲原工場には1号線バイパスが写っていない。工場が稼働した当初は発電排水路に岸壁が作られ、清水港からアルミナを積んだ船が接岸していた。
蒲原工場では発電排水路に岸壁を作って船を接岸させ、清水からアルミナを運んだ。蒲原工場が建設される以前、その土地は農地だった。砂浜は駿河湾に面し、風が吹けば大型船の接岸が困難なことは素人にも解る。
清水と土肥を結ぶ駿河湾フェリーが欠航する理由は、土肥の接岸場所が湾内ではなく駿河湾に面した場所にあり、風や波が強いと接岸できなくなるからだ。
だから、天候に左右されず荷役を確実に行える鉄道輸送が必要になった。アルミ製造は企業の問題ではなく、戦争遂行のための必需品だ。そして、巴川に可動橋が架けられ清水臨港線が三保まで延長されることになった。戦争末期で物資が極端に欠乏しているなかでの緊急工事だ。いろいろな部材に粗悪品が使われたのは当然だろう。
小林一三は当時の日本を代表する実業家として、新しい企業の姿を作り出していた。天候に影響されない鉄道輸送の利点と、蒲原海岸の難点について知らなかったとは思えない。
「当時国鉄はローカル線とはいえ国会の承認無しでは敷設出来ず、止むなく国策会社の工場構内線の型式でこの路線を巴川口より軽金属の構内に引き込んだという戦時下特別措置によったのではないかと思われる」(むかしの清水)と多喜義郎氏は当時の事情を説明している。
小林一三は1940年(昭和15)1月~翌年4月まで第2次近衛内閣の商工大臣を勤めている。彼の力をもってしても鉄道省を動かすのは困難だったのかもしれない。戦局が悪化するなかで敷設工事が始められる状況ではなかったと思う。
鉄道輸送の必要性を知りつつ、その建設には簡単に手が出せなかった。だから清水と蒲原を船で輸送する方法で生産を開始し、輸送が困難になった段階になって国を動かしたのではなかろうか。「3年遅れの開通」を小林一三は最初から折り込み済みだった。そんな気がしてならない。

「清水市之栞」(個人蔵)日本軽金属の工場用地は予定地となっている。三保街道の西側に、道路に沿って水色の線が引かれ、日軽金の工場のなかへ続いている。後に作られる鉄道引込線と似た軌跡だが、ここで描かれているのは安倍川で取水された静清工業用水である。

「清水市之栞」は通常と地図と異なり色づけがされている。
凡例の一部を紹介する。
つづく