昭和14年の清水(その1)

1984年(昭和59)発行された清水港線の廃線記念切符
●歩くことで見えてくるもの
8月16日、清水南高郷土研究部と清水鉄道遺産保存会が主催した「清水港線ガイドウォーク」に、清水ふるさと塾のメンバーが参加した。
集合は朝8時30分、清水駅東口である。この日も朝から猛烈な暑さだ。主催者から資料が配られ、1984年(昭和59)に廃止された清水港線の線路跡に沿って歩き始める。日の出埠頭、冨士見埠頭、鉄道岸壁に残る引込線の痕跡を丹念に見ながら三保駅跡まで歩いた。
若者たちの説明を聞きながらの探索は、暑さも、そして長時間のウォークキングであることも忘れさせてくれた。聞けば、事前の下見ウォークなど入念な準備が行われていたという。楽しさを支える若者たちの熱意が嬉しい。
「清水港線ガイドウォーク」では線路跡を歩きながら、「ここを列車が走っていたのだ」ということを何度も意識した。そう思わせる痕跡がたくさん残っている。歴史の現場に立ったと言えば大袈裟になるが、自分が歩いた清水港線の歴史を、掘り下げてみたくなってきた。現場を歩くことで見えてくるものがあることを実感した。
●「きょうの清水」清水港線ガイドウォーク≫
話はひと月前に戻る。7月20日、清水ふるさと塾の仲間たちと袋城の時代を訪ねるウォーキングを行った。メンバー有志が「袋城」のレポートをまとめている時でもあり、それに触発され、本町から江尻、入江を歩いた。
このウォーキングは、ドリプラ駐車場で開催されている「あっ朝市」を集合場所にしていた。出発前の懇談で、メンバーのひとりが静岡県立図書館で閲覧し、コピーを取ってきてくれた「清水市之栞」を披露した。カラー印刷された昭和14年の地図には、港湾の埋立地の上に分譲地の広告のように赤字で「○万坪」と記されている。
これまで何冊かの郷土史の書籍や冊子を読んでいたが、「清水市之栞」は知らなかった。初めて見る栞の色刷り地図に驚いた。ただ、その時は珍しい物を見たという驚きだった。
8月16日の夜、清水港線の痕跡を思い出しながら、ひと月前に出会った「清水市之栞」を見直してみた。昭和14年の地図で清水港線がどのように記されているのか気になったからだ。

昭和14年、清水商工会議所が発行した「清水市之栞」(個人蔵)
●3年遅れた開通
1939年(昭和14)年発行の「清水市之栞」には日の出埠頭までの線路が記されている。まだ巴川の可動橋はない。ここに描かれている日軽金清水工場は、まだ予定地だが、栞が発行された1939年(昭和14)7月に地鎮祭が行われ、2年後の1941年(昭和16)9月に操業が始まっている。
東海道線の開通は1889年(明治22)である。8年後の1897年(明治30)に複線化され、輸送力が強化される。清水港は、1899年(明治32)に開港場に指定されたが、輸出入の扱い扱い量はまだ大きくない。貿易が本格化するのは1906年(明治39)にアメリカへの製茶輸出が始まってからだ。これに合わせて、清水港の改修工事が始まる。
1908年(明治41)から始まった第1期改修工事で、清水船溜、江尻船溜、巴川河口が整備された。島崎海岸が埋め立てられ広大な工場敷地が出現し、豊年製油(当時は鈴木商店製油部)が誘致された。いくつかの候補地から清水が選ばれている。巨大な貨物船が横付けできる立地条件の良さが決め手だった。
豊年製油の工場が操業を始めたのが1916年(大正5)、臨港鉄道は工場の操業に合わせて江尻駅から延長され、臨港鉄道清水港駅が作られた。清水港駅はドリプラ前にあるテルファーの場所にあった。テルファーが完成したのは1927年(昭和2)で、まだ先の話だ。この時代、輸出の大半はお茶で、輸入の大半は大豆だった。
豊年製油(現J-オイルミルズ)の工場内に作られた引き込み線では、中国大陸から輸入された大豆が運ばれ、製品となった大豆油が全国へ出荷された。大豆油のシェアが8~9割にもなった時期がある。
清水港第2期改修工事は1921年(大正10)から始められ1924年(昭和13)に完了した。この工事で貝島の埋立と、日の出埠頭、富士見埠頭が建設された。現在に至る清水港の姿は、この頃にほぼ完成している。
1925年(昭和14)、アルミ生産のため日本軽金属が創立された。古河電工、三井鉱山、三菱鉱業、住友電線などの財閥が参加した国策企業である。アルミは戦争遂行のため欠かせない金属として注目されていたからだ。
工場を蒲原と貝島の埋立地に誘致する努力が行われた。その結果、蒲原に電気精錬工場が、三保貝島には原料のボーキサイトからアルミナを作り出す工場が造られた。工場には大型船が横付され、ボーキサイトが運び込まれた。豊年製油の工場と同じように、日軽金も誘致によって清水で操業を始めた大工場だった。
昭和16年に貝島で日軽金が操業を開始してから、3年後に清水港線が完成している。原料や製品の運搬に必要な鉄道が、豊年製油では操業に合わせて用意されたが、日軽金では用意されていなかった。

村松にある市内電車と清水港線の車両の屋外電車展示場の隅に無造作に置かれた鉄製の滑車。「これ何か判りますか?」と若者たちから聞かれて、すぐには判らなかったが「四個あるんです」とヒントをもらって可動橋の最上部でワイヤーを支えた滑車だということに気づいた。
清水港線の開通が日軽金の操業開始から3年も遅れていることを「清水港線ガイドウォーク」の時に、主催者の若者に聞いてみた。彼らにも遅れた理由は判らなかったが、清水港線で使われた鉄材が粗悪品だったことを教えてくれた。工業生産に必要な資材があらゆる分野で不足し、民間から鍋釜を徴収している時代だ。この時期に敷設された鉄道の材料が粗悪品だったのは当然のことだろう。
清水港線が三保駅まで延長され、三保駅から日軽金の工場内へ引き込み線が完成したのは昭和19年7月である。同じ頃、サイパン島が陥落し、10月には神風特攻隊の自爆攻撃が始まっている。三保までの線路の延長は、敗戦に向かって大きく進んでいる頃に工事が行われた。それは単に利便性を高めるというようなものではなく、非常事態のなかで一刻も早く完成させなければならない切羽詰まった理由があったはずだ。

清水港線三保駅跡の公園に置かれているディーゼル気動車とアルミナ専用のタンク車両。アルミナ粉末を蒲原の電解工場に運んだ。
つづく