≪ 7月20日 袋城を訪ね巴川を歩こう | 清水ふるさと塾 | 袋城ウォーキングのルート ≫


袋城から江尻城へ巴川を歩く

7月20日、清水ふるさと塾では、本町の袋城跡から江尻城跡、入江の海船川を訪ねるウォーキングを企画した。途中参加も含め6名が梅雨明けの炎天下を港橋から江尻、入江まで歩いた。

袋城から江尻城へ巴川を歩く

集合場所は、ドリプラ駐車場で開かれている「あっ朝市」の櫻珈琲青テント前。早めに集まったメンバーが、独自に収集してきた古地図を広げ、事前学習で盛り上がる。

9時に会場を出発し、港橋を渡り巴川右岸を上流に向う。おいべっさん(西宮神社)を過ぎると、稲荷神社がある。石鳥居の横に「旧袋城の石」と書かれた石がある。この辺りが、袋城があった場所とされている。字名も「袋町」である。

「わが郷土清水」によれば、袋城は1570年(永禄13)に馬場美濃守(ばばみののかみ)が、北条氏水軍に備えるため巴川河口に築いたという。

「袋町」「美濃輪町」という名前の由来になった「袋城」は、多くの謎に包まれている。昭和51年、佐藤虎次郎市長の時代に第1巻が刊行された「清水市史」には、江尻城や久能城について詳しく書かれているが袋城についての説明はない。伝承の裏付けとなる文書がないためかどうか判らないが、謎多きゆえに「袋城」には、私たちを引きつける磁力を感じる。

美濃輪在住の塾生が「袋城」についての研究レポートをまとめました。図版と関連資料が整いしだい、当サイトに掲載します。

袋城から江尻城へ巴川を歩く

入江側から見た江尻城本丸跡。現在は、江尻小学校のグランドと校舎になっている。

本町から巴川沿いに江尻に向う。途中、千歳橋で右岸から左岸に移る。日本一低い鉄橋の下を歩き、大正橋に出る。稚児橋に向い、魚町稲荷から江尻城本丸跡の江尻小学校の周囲を歩き、再び巴川にでる。

江尻小と国道1号線の巴川橋の中間ぐらい、入江側に暗渠が見える。これが「海船川」である。

袋城から江尻城へ巴川を歩く

暗渠(あんきょ)とは、覆いをした水路や、灌漑・排水などのために地下に設けた溝である。元は河川だったものを宅地化のなかでコンクリートなどで覆い、道路や歩道にする。普段の流れは細々としたものだが、大雨などの後では排水溝としての役目を果たしてくれる。

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巴川に注ぐ暗渠を遡ってゆくと、狭い小路に続いている。鉄板の蓋やグレーチングを頼りに進むと、入江まちづくり推進協議会が作成した海船川の由来を書いた看板がある。

この看板がなければ、海船川は書物のなかには記録されていたも、誰もその存在を知らなかったかもしれない。「いまあなたが立っているこの所は」という説得力のある書き出しは、現場で歴史を感じることの大切さを訴えているような気がする。

袋城から江尻城へ巴川を歩く

由来の看板から先は、マンホールの蓋を頼りに進む。下水と書かれた蓋とは別の絵柄が道路に沿って続く。川に蓋をした場所を道路にしたため、道は直線ではなくところどころくねっている。

S字になった道路を抜けると、その先に肉のタガヤがあった。

袋城から江尻城へ巴川を歩く

旧東海道と海船川が交差する場所に、「海船橋」が架けられていた。海船川も、この辺りまで来ると川幅も狭かったようだ。

以前、道路工事で掘り返した時に木製の構造物が出て、海船橋の遺跡かもしれないと発掘調査が行なわれたという。中世の遺跡という期待があったが、年代測定で明治時代と判断されたらしい。

中世の地形図この図は「袋城」のレポートを書いた塾生が作図した中世の巴川想像図の一部である。

巴川の湾曲を利用して築かれた江尻城と、その対岸にあった海船川の位置関係が判る。巴川の川幅は現在と比べものにならない広さがあった。巴川の河口は、現在の新清水から千歳橋の辺りだろうか。袋城は当時の河口から、まだ南になる。河口というより駿河湾に面して築かれたというべきかもしれない。

袋城から江尻城、海船川を訪ね歩いて、500年間で巴川流域の地形が大きく変わったことを実感した。袋城があった本町からドリプラの観覧車が見える。中世には、ここは川ではなく、岸辺に駿河湾の波が押し寄せていた。富士山が大きく見えていたに違いない。

古地図を頼りに、まちを歩くと新鮮な発見がある。この楽しさをもっと広げたいと思う。

袋城から江尻城へ巴川を歩く

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コメント

一番下の写真。袋城の対岸、なぜ住宅が巴川にせり出しているのか?
当該住人以外、近隣住人でもあまり考えた人はいないでしょう。
昨今、巴川に係留してあるプレジャーボートも小うるさく注意される時代。巴川流域で唯一、河川の上に住宅がある所・・・
その昔、さつき通り区画整理の際、整理で取られた分の土地の補償をしてもらえず、苦肉の策として河川上にその分の土地を持った・・持たざるを得なかった・・と言うのが事実。旧清水市政の負の遺産といったところです。ちなみに昔は、旧清水銀行富士見町支店(現なすび)のあたりから港橋渡った反対側のたもとの飲み屋まで川にせり出してました。いつになったら補償してやるんですかね?と思う。

歩いたルート地図を、次ページに掲載しましたので
ご覧になって下さい。

明治22年発行の地図ですから、今と違う新しい発見が
あります。

袋城のレポート興味深く読ませてもらいました。
忘れ去られた事実の掘り起こしは大変です。応援してます。
歩いたルートを地図で示してくださるとわかりやすいのでどうぞ載せて下さい。

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